清荒神へ [◇雑記帳]
本日も晴天なり。昨日夕刻、注文してあったダイオミラーの省エネサンシェードなるものが到着、今朝いちばんで吊るす。以前、一枚だけ買い求めてほとんど1日過ごす部屋の南の窓外に吊るしたところ、涼しい。そこで三枚買い足したものである。窓全面を覆ってしまうとさすがに暗くなるようなので、各窓半分ずつ、ちょうどガラス窓一枚分をそれぞれ覆うように吊るす。「通販生活」では一枚八千円ほどもして手が出なかったのであるが、とあるホームセンターの通販で安く買い求めたもの。無論、遮光率などは「通販生活」のものよりも劣るようである。
この作業に40分程かかり、汗だくになった。そのためか、悪かった体調が少し良くなったようである。汗をかくのは体にはいいようだ。朝食後、ちょっと変調のあった子供の体調の最終チェックのため小児科を訪れ、もう大丈夫ということだったので、昼食を摂った後、清荒神へ向かった。
何年かに一度しか行かないが、山の中にあるちょっと不思議なお寺。さすがに町中とは違い、空気も澄んでいるし木が多いために涼しくもあったが、いかんせんものすごい湿度で、過ごしやすいとはいえなかった。同じ山の中でも、箕面の滝に向かう山道は広い谷沿いで風通しも悪くないのであるが、こちらは風が通らないようで、何もかもが苔だらけである。ブリキの看板にまで苔が生えている。この湿度の中を歩いていて初めて、「家のつくりようは夏をむねとすべし」の意味が分かった気がする。単に兼好法師が暑さ嫌いだっただけかもしれないが。
「どこかへ行こう」が口癖になりつつある子供のため、と思って連れて行ったのであるが、子供は不満だったようだ。「もう帰るよ」と言うと、「まだどこにも行ってない」と返されてしまった。まあ、そうかもしれない。また「どこか」へ出かけることになりそうだ。
今までナス鉢とピーマン鉢を置いてあった場所に陽が当たらなくなってきた。季節的な太陽の位置も関係があるが、それよりも、切り株からしゅうと伸びた細いナンキンハゼの枝に、思ったよりもたくさんの葉が茂ったせいである。それに、庭隅が今ほとんど空である。ズッキーニはとうとう、ひとつも実をつけることなく枯れた。枯れたというより、腐った。だから、割合広い場所が空いたのである。そこへ鉢を移動させた。東京南瓜も、頑張ったのにひとつも実がならなかった。今朝がた、最後に残っていた実が腐っているのを発見。もう諦めることにした。短日植物だというが、雌花も咲きそうにない。結局、カボチャは生ゴミカボチャの一個だけ、しかもそれほど大きくはならなかった。そろそろ、収穫してしまおう。来年はやっぱり、エビス系のカボチャにしよう。というか…、生ゴミカボチャでいいんじゃないですか?
この作業に40分程かかり、汗だくになった。そのためか、悪かった体調が少し良くなったようである。汗をかくのは体にはいいようだ。朝食後、ちょっと変調のあった子供の体調の最終チェックのため小児科を訪れ、もう大丈夫ということだったので、昼食を摂った後、清荒神へ向かった。
何年かに一度しか行かないが、山の中にあるちょっと不思議なお寺。さすがに町中とは違い、空気も澄んでいるし木が多いために涼しくもあったが、いかんせんものすごい湿度で、過ごしやすいとはいえなかった。同じ山の中でも、箕面の滝に向かう山道は広い谷沿いで風通しも悪くないのであるが、こちらは風が通らないようで、何もかもが苔だらけである。ブリキの看板にまで苔が生えている。この湿度の中を歩いていて初めて、「家のつくりようは夏をむねとすべし」の意味が分かった気がする。単に兼好法師が暑さ嫌いだっただけかもしれないが。
「どこかへ行こう」が口癖になりつつある子供のため、と思って連れて行ったのであるが、子供は不満だったようだ。「もう帰るよ」と言うと、「まだどこにも行ってない」と返されてしまった。まあ、そうかもしれない。また「どこか」へ出かけることになりそうだ。
今までナス鉢とピーマン鉢を置いてあった場所に陽が当たらなくなってきた。季節的な太陽の位置も関係があるが、それよりも、切り株からしゅうと伸びた細いナンキンハゼの枝に、思ったよりもたくさんの葉が茂ったせいである。それに、庭隅が今ほとんど空である。ズッキーニはとうとう、ひとつも実をつけることなく枯れた。枯れたというより、腐った。だから、割合広い場所が空いたのである。そこへ鉢を移動させた。東京南瓜も、頑張ったのにひとつも実がならなかった。今朝がた、最後に残っていた実が腐っているのを発見。もう諦めることにした。短日植物だというが、雌花も咲きそうにない。結局、カボチャは生ゴミカボチャの一個だけ、しかもそれほど大きくはならなかった。そろそろ、収穫してしまおう。来年はやっぱり、エビス系のカボチャにしよう。というか…、生ゴミカボチャでいいんじゃないですか?
コメント 0